小説



『今宵、真紅のワインを』



 砂漠に二つの王国がありました。

 国と国の間には小さな村がありました。

 その村から少し離れた砂しかない場所で、一本のシャベルを持ったおじいさんが穴を掘っていました。

 おじいさんはいつの頃からか、一人で砂漠に穴を掘っているのです。

 穴は深く深く地面を掘り下げ、もうおじいさんの姿は見えません。

 だから誰もおじいさんの顔を見たことがありませんでした。

 でも声から、おじいさんだということだけは、理解していました。

 いつも暗い穴の底からは、荒い息遣いと、砂にシャベルを突き立てる音が延々聞こえています。

 そこを通りがかった旅人は、時々おじいさんに話しかけます。

「こんにちわ。誰だか知らないけど、何をしているんだい」

 旅人が話しかけても土を掘り出す音は止まりません。

「やあやあ、旅人さん。私は喉が渇いているんです」

「じゃあ、おじいさんは水を掘り当てるつもりなの」

「まずはそうなるでしょうなぁ」

 旅人は堪えきれず吹き出しました。

「おじいさん、そりゃ無茶だよ。だってここは砂漠なんだから」

 それでもおじいさんは手をとめようとしません。

 呆れた旅人はそのままどこかへ行ってしまいました。


 時には、優しい旅人もいます。

「もしもし、こんにちは。私はあなたのことが心配です。何度もこの場所を通っていますがあなたが休んでいるところを見たことがない」

 穴のそこからは息を荒げながらも元気な声が返ってきます。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。わたしはとっても頑丈なんですよ」

 旅人はその言葉に、なおさら心配を募らせました。

「だめですよ、おじいさん。食べ物はあるんですか? 水は持っていますか? 睡眠はきちんと取っているんでしょうね?」

「わたしはね、しばらく食べなくても大丈夫なんですよ。それに寝る必要はありません。ただ喉が渇いているだけなのです」

 おじいさんの声は長いトンネルに反響して、恐ろしい声に聞こえています。

 旅人はおじいさんの答えに苛立ち。

 もう何を言っても無駄だろうとその場から立ち去りました。

 穴は深度を増し、闇は一層濃くなっています。


 月の満ちた夜、音もなくこうもりが現れました。

「まだやっとるのかね」

「おかげさまで順調ですよ。土が湿ってきましたからね」

「いい加減にやめたらどうだ?」

「いいえ、今さらそう言うわけには。それに労働の後口にするワインは最高だというではありませんか」

「わからんな。なぜそんなことをする必要があるか理解に苦しむ。まあ我々は止める理由がない。したがって君のすべてを黙認するが」

「残念極まりますなぁ。この感覚がわからないとは」

 こうもりは夜闇に掻き消え、おじいさんは月明かりも届かない土の中で、一生懸命掘ります。


 あるとき、おじいさんはついに水脈にシャベルを突き刺しました。

 とたん水が溢れ、おじいさんを穴の外へ押し出しました。

 おじいさんは久しぶりに見る太陽に顔を歪ませました。

 おじいさんが水を掘り当てた噂は瞬く間に広まり、おじいさんは英雄になりました。

 人々は初めておじいさんを見て目を疑いました。

 普通の人からすれば、とても醜い姿をしていたのです。

 おまけに長い間、地面の下にいましたから目も当てられない状態でした。

 けれどみんな水を飲みたかったので、何もいいませんでした。

 とにかくおじいさんを褒め称えました。

 そこには以前おじいさんを馬鹿にした者たちもいました。

「さあ、おじいさん。一番に水を飲んでください」

 皆口々に言いました。

 けれどおじいさんは首をふります。

「君たちが心ゆくまで飲むといい。私はそのために掘ったんだから」

 そういって微笑みました。

 村人達はそれを耳にして目を丸くしました。

 そのあとに起こったのは歓声です。

 だれもがおじいさんを尊敬しました。

 もうおじいさんを悪い目でみる人はいませんでした。

 おじいさんは誰にも聞こえない声で言いました。

「あともう少しの我慢だから」


 それからもう、おじいさんは地面を掘りませんでした。

 おじいさんの見つけた砂漠の水は、こんこんと湧き出し、二つの王国の間、ちいさな村の近くに湖を作っていました。

 もう掘る必要はなかったのです。

 おじいさんは湖の畔で何かを待っているようでした。

「喉が渇いた……」


 ある日、湖にたくさんの足音がやってきました。

 それらは砂漠ならではの軽くて動きやすい鎧を身に着けた大勢の兵士たちでした。

「この湖は我が主、シュトマンドラ二世の治める西の国、ユーピスの領地とする」

 兵士は勝手なことを言っておじいさんに刃を向けました。

 水を掘り当てた功労者に対して、兵士たちは汚らわしいものを見るような視線を浴びせました。

 そしてためらうことなく斬りかかりました。

 おじいさんは死にたくなかったので、急いで湖に向かって逃げ出しました。

 さすがの兵士も鎧がありますから、身軽なおじいさんを追いかけることはできませんでした。


 しばらくあと、その場所に悲鳴が沸き起こりました。

 湖を背に陣を張っていた西の国の兵士達が、突然現れた兵士達に奇襲を受けたのです。

 奇襲を仕掛けた方の兵士は、ラクダの上から逃げまどう敵兵に告げました。

「この湖は我が主、シャトラーグス二世の治める東の国、アクルスの領地とする」

 西の国の兵士達は皆殺しにされ、多くの血が流れました。

 しかしそれだけで争いは終わりません。

 奇襲の知らせを受けた西国の王シュトマンドラ二世は援軍を送りました。

 そしてその知らせを聞きつけた東国の王シャトラーグス二世も負けじと増援を送りました。

 それまで均衡を保っていた二国で戦争が勃発したのです。


 数ヶ月が過ぎました。

 二つの国力はほぼ互角でした。

 当然決着はつかず、とうとう東と西の両国は勝つことを諦め、和睦を結びました。

 湖はどちらの領地にも属さない場所になったのです。

 いえ、元からどこにも属していない砂漠でしたから、なったと言うより、どうにもならなかったと言うほうが正しいでしょう。

 二つの国は、争いをやめましたが、そのための犠牲は計り知れないものとなりました。

 国と国の間にあった小さな村は、戦争に巻き込まれ廃墟になってしまいました。

 そして、戦場になった湖の畔は兵士の死体が山と転がっています。

 どちらの国の兵士も分けられることなく、無造作に見渡す限りの死屍累々。

 何千何万の兵士達から流れ出た血は湖を赤く染め上げています。

 戦争が終結したもう一つの理由はこれです。

 もはや、ただの一人として湖の水を口にしたい人間はいなかったのです。


 うす赤く濁った湖に三日月が浮かぶ夜、死体の間を動くものがありました。

 それは水を掘り当てたおじいさんでした。

 おじいさんはゆったり湖に近づくと、地面に降り立ち、湖に影を落しました。

「やっと、完成した」
 
 言うが早いか、おじいさんは湖に首まで突っ込んでがぶがぶと喉を鳴らしました。

 血とも水ともつかぬ液体を、それはそれはうまそうに。

「やはり、我慢して労働のあとに飲む真紅の赤ワインは」

 おじいさんはそこで言葉を切り、長い舌を牙の間からちらつかせました。

「格別……だ」

 うっとりした声が口からこぼれました。

 それから存分に喉を潤したおじいさんは、再び黒い羽を大きく広げ、空に飛び立ちました。



    ビギルギス著 (『暗黒童話』)より



 窓の外には暗黒色の空。地上において星と称されるものは存在せず、紅い月が不気味に輝いている。
 ここは魔界の小学校。今は国語の授業の真っ最中である。生徒達は一様に、表紙の黒い教科書に真剣な眼差しを送っている。
 「はい、みなさん、そろそろ読めましたか?」
 発したのは、大人の悪魔。彼はこのクラスの担任である。先生の問いを合図に、生徒は一斉に顔を上げる。
「今日は有名なビギルギスが著した、暗黒童話を取り上げました。みなさんはどのような感想を持ちましたか?」
 教室にざわめきが起こる。
「おじいさんすごいよねー。私だったら喉が渇いたらすぐ人間に噛み付いちゃう」
「でも、登場人物の悪魔も言ってたけどさぁ。あんま意味ないと思うけどな。砂漠で穴掘りとか罰ゲームだぜ」
「そんなことないよ! 我慢したらすっごくおいしいんだよ。ご飯って」
「ぷくぷく太った君が言うと、まったく説得力がないな」
 パンパンッ。
 先生悪魔が手を二回叩くと、教室は静まり返った。
「みなさんいろいろな感想をおったと思いますが、この話の肝は人間がいかに愚かであるか。生きるに値しない下等な生物であるかをわかってもらうためのストーリーです。ちなみに、このビギルギスの暗黒童話に収録されている物語は、全て実話を元に作られています」
 教室が再び色めいた。くちぐちに人間の悪口が漏れる。
 そのとき授業時間終了の甲高い叫び声がとどろいた。
「では、本日はこれまで。家に帰ったらもう一度読んで。明日感想を書いて持ってくること。わかりましたね?」
 生徒達は元気よく返事をすると、カバンを背負って教室をあとにした。

 教室には先生と、メガネをかけた子供の悪魔が残っている。
「おじいさんは結局、何者だったんですか?」
「どうしました? 突然に」
 先生は笑って、口から牙を覗かせた。
「この物語、先生は実話を元にと仰いました。だけど私達悪魔は、人間を殺してはならないのでしょう? 直接手を下してはいませんが、おじいさんは間接的に人間を殺しています。おかしいじゃないですか」
 子供の悪魔はメガネをくいと押し上げた。
「さすがこのクラス一番の秀才、ですね」
 先生は目を光らせると言った。とても誇らしげな様子は生徒を愛している証だろう。
「このおじいさんは、人間だったのです。だけれど悪魔と契約して悪魔と人間の中間に生まれ変わった。ちなみに暗黒童話とは、彼の残した伝説を元に作られたのです」
「どうして、こんな酷いことをするんでしょう……殺す必要なんてどこにあったんでしょうか」
「さぁて、おそらく悪魔には理解できないことでしょう。人間は生きる目的以外にも命を奪うことが出来る生物です。だから我々悪魔は人間を嫌う。理解できないからです。人間の持つ私達悪魔のイメージなど、それこそ人間に相応しいというのにね」
 先生悪魔の乾いた笑い声は、がらんとした教室に飲まれて消えた。