逃亡者T
身に纏った夜より暗いマントがバタバタと声を上げる。これは父が私に残してくれた形見。肌身離さず持ち歩いているトレードマーク。
明け方の街に人の気配はない。私と追跡者の足が地面を打つ音がやけに大きく木霊する。
なぜ私が追いかけられなければならないのだ。私はただ、夜の街で風と戯れていただけだというのに。私は悪くない。悪いことなど……していない。
しかし追われているということは事実だ。それならば逃亡者である私に用意された選択肢は二つ、“逃げるか” もしくは“捕まるか”。
否、私は捕らえられ白昼の下に曝されるわけにはいかないのだ。亡き両親の、特にこの街に薬術師として多大な貢献を果たした父ベルマールの顔に泥を塗るわけには……。
* * * * *
追跡者T
あのマントやろう。意外に、はやいじゃねぇか。
俺は30メートルほど前の黒マントに向って舌打ちをした。裏も表も黒地のマントは少しでも目を離したら、溶けて消えちまいそうに思える。月がなけりゃお手上げだった。
「はぁっ、はっ、はぁっ……ええい、邪魔だぁ!!」
俺は走りながら鉄の胸当てを外し、連結した肩当と共に道の脇へと投げ捨てた。数秒遅れて金属がぶつかる音が返ってくる。
「すまんお袋ッ! あとで取りに戻るからよおッ!!」
みるみる小さくなる愛用の装備に、ちらりと視線を送る。賞金稼ぎになった俺にお袋が大枚払って買ってくれたプレゼントが夜闇に食いつぶされていく。
太陽が顔を出す前の街は薄暗く、不気味だ。数日前まではこの時間になると、店の準備をする商人や散歩する年寄りがいたもんだが、人っ子一人いやしねぇ。こんなに静かなのも全部、前のあいつが悪い。臆病な市民は日の出てない時間、家に閉じこもってるんだからなぁ。
俺は大きく息を吸い込んで、一気に速度を上げた。装備の重さから開放された足はさっきとは別物みたいに軽い。これなら、追いつける。
さっさとあのマント野郎をとっ捕まえて、その首に掛かった賞金をいただく。でもって久々にうまい飯に酒、運がよけりゃ女にもありつけるって寸法だ。
やつは今のところ逃げるだけで、抵抗する気配はない。追い詰めてみなけりゃなんともいえないが、とりあえずこの剣だけは放り投げるわけにはいかないな。
* * * * *
逃亡者U
50メートルほど後ろで、追ってくる男が何かを投じる音がした。振り返って確認すると、男は鎧を脱ぎ捨てたらしい。ぴっちりとしたアンダーが隆々とした筋肉を際立たせている。私の体とはまるで正反対である。
「などとっ、感心しているっ、場合ではっ、ないっ!!」
私は自らを叱咤する。私は追われる側だ。追う側なら楽なものである。最悪の場合、諦めるだけでいい。
だが、私は違う。諦めるとはすなわち捕縛されること。そして捕縛されたらそこまで、だ。
しかし、募る焦燥に比例するかのように音は少しずつにじり寄る。
「あぁっ、はっ、速いッ」
私は体力がない。立っているよりも、座っていることのほうが多いというのが、主たる原因だろう。すぐ彼に捕まらなかったのは単純に身に着けているものの差だ。彼が重荷を捨てた以上、逃げ切ることは不可能。
追ってくる彼と違い、私にはこれ以上軽量化できる要素はない。どんな理由があったとしても、このマントだけは捨てられない。
となると、あとは何も身に着けていないし、何一つ持ってはいない。全裸にマントで私は夜を駆ける風になっているのだから。
* * * * *
追跡者U
やけに静かだ。自分の足音すら、遠くに聞こえる。神経が研ぎ澄まされる。自分の息遣いが何倍にも感じられて、まるで獣になったように感じる。これがランナーズハイってやつなのか。足の裏の感覚も痺れたように鈍くなってきた。
「っくしょう、粘りやがる……」
身軽になった俺はやつとの距離をかなり縮めた。縮めは、した。
だが、ふん捕まえるにはまだ足りない。マントの野郎も死に物狂いだってことだ。
ああ、なんで俺は太陽もねむってる時間に鬼ごっこなんかしてるんだっけかな……。っといかんいかん、頭がボーっとしてきたぜ。
なぜってそりゃあ、3日前の夜、若い女がマントのやつに襲われたからだ。黒いマントって話だから、俺が追ってるやつで間違いないだろ。
女の訴えはこうだ。
「夜道を一人で歩いていると、曲がり角で突然現れた真っ黒いマントに襲われた。いきなり壁に投げつけられ息ができなくなった。ショックで記憶がはっきりしないことと、雲で月が覆われていたため暗かったせいで、詳しいことはわからない。気が付いたときにはマントは遠くにあって、すぐに夜に溶けるように消えた」
女は襲われたと語っているが、本当だろうか。こいつは、俺を見るなり一目散に逃げ出したようなやつだ。異様ではあるが、魔物のように気を抜けば命を持ってかれるようなビリビリしたもんを持ってない。
いや、女を専門に狙ってたっつーことが考えられるか。
まあ、難しいことは無しだ。ともかくそれがきっかけで「漆黒のマントを捕まえたものには賞金を取らせる」ってことになったんだからな。俺様は金がもらえりゃ、それでよしだぜ。
* * * * *
逃亡者V
限界が、近い。肉体的にもだが、時間も差し迫っている。夜が明けてしまったら終わりだ。
体は熱気に覆われ、風も冷やすことはできないようだ。心臓の音が耳のすぐ近くに聞こえ、肺が破裂しそうである。
追跡者の足音はじわりじわりと近づいてきている。私の脚力が落ちてきているせいだ。
やはり、もう外に出るべきではなかったのだ。初めて人に目撃されて目覚めるべきだった。
しかし私は誘惑に負け、再び闇の世界に躍り出た。私の行いが異常だということは分かっている。よく理解している。 マントが逃げろと騒いでいる。私は名家の生まれだ。ジェントルマンになるべく育てられた。このマントは、普段の私と変態である私を繋ぐ最後の架け橋なのだ。
このマントを捨て、完全な裸となって夜の街に繰り出したとき、私は真の変質者に成り下がる、私は自分にそのようなルールを課した。したがって現在は、まだ変態と言う名の紳士なのだ。このマントを纏っている限りは、朝になれば元の自分に戻れるのだ。
大量の汗が流れては落ちる。刻一刻と水分が奪われてゆく。
私の中に変態心が芽生えたのはいつだったろうか。父が死んだ後だから、随分と前のことになる。その頃の私は、まだ壁を越えていなかった。夜中の広い庭で裸にマントを羽織り、遊んでいただけだった。
私は脱いでこそいるが、決して人に見られたいわけではない。風を全身で感じたいだけだ。衣服から己を解き放ちたかっただけなのだ。
だが、風を感じるという欲望は時を経るごとに強大になり、抑え込めない衝動へと上り詰めていった。
そしてある夜、私は思った。通りの突風をこの身体で受け止めたい、と。それは更なる開放を求める内なる私の叫びだった。
一線を越えるのはあっけなかった。瞬きする間に私は外の世界に身を投じた。通りをびゅうと風が走り抜け、私を追い越していった。風になでられる感覚に、震えた。
私はそれから、たびたび闇に身を預けた。
人に見つかることはなかった。人々が寝静まる深夜にしか実行しなかったし、細心の注意を払っていたからだ。
だが、ついにその白紙にも一点の墨が落された。
3日前、私はいつになく高揚していた。酒を飲んでいたこともあってだろう。本能に身を委ね衣服を脱ぎ捨てると、マントだけを引っ掛け、街中を吹き荒れる一陣の風と化した。
2番通りの見通しが悪い曲がり角に差し掛かったとき、かすかな気配を感じた。
……だが、遅かった。風は止まることを知らなかった。強い衝撃が私を襲い、前方から甲高い悲鳴が発せられた。
声の主は、若い娘だった。彼女は私に押し飛ばされ、壁にぶつかってうずくまっていた。私は迷った挙句、来た道を取って返した。
もしかするとみられずに済むかも知れぬと、淡い期待を抱いて。
石畳を靴が殴りつける音がする。すぐ後ろで、だ。ひゅー、ひゅーという荒い息遣いも私に手を伸ばそうとしている。
甘かったのだ。この状況こそが何よりの証拠。
今日、一通り街を徘徊し終わって、さあそろそろ帰ろうかという時だった。3日前のあの場所で、この男は待っていた。突然路地の闇から姿を現し、追跡を開始した。私はわけもわからないまま逃げ出し、今まさに捕まらんとしている。
そして、ついに、マントに、指が――。
* * * * *
追跡者V
やぁっと、追いついた。暴れるマントに指が触れる。そりゃぁせめてもの抵抗のつもりなのか? つるつるとした不思議な手触りだ。これは高級品に違いねえ。
酸欠になり、脳が回転を弱めつつあるみたいだな。もとよりからっぽ脳みそが、さらに職務を放棄しはじめてる。
せめて、こいつを捕まえるまでは頼むぜ。もってくれよ俺の身体。
もし今このマント野郎が攻撃を仕掛けてきたら、俺はかわせないだろうな。なんせこれだけの至近距離だ。
だけどやっぱりどう見ても、マント以外に何もないようだ。噂どおりで助かったぜ。
ならば、恐れるものはなんもねぇ。今一度手を伸ばせ。マントを、いや、金を掴み取るんだ。
さあッ――。
* * * * *
逃亡者W
バッサァッ!!
「うおっ!!」
男の手が触れるが早いか、私はマントの結び目を解いた。背に腹は変えられない。最後の手段を使ったのである。
それまで追いかけていたマントが急に自分に向かって飛んできたのだ。避けきれるはずはない。視界を奪われ、屈強な追跡者は足をもつれさせ、派手に転んだ。
そして完全な全裸、真っ裸、自由人、アルティメット変態に変体した私は、路地に飛び込んだ。そこは運悪くゴミ捨て場だった。行き止まりであったが、すでに動く気力は残っておらず、気配を消して身を潜めるしかなかった。
「痛ってえぇーッ!!」
私が、通路の行き止まり、積みあがったゴミの山に伏せたと同時に、男は跳ね起きた。マントを顔から剥ぎ取ると天に掲げ笑った。
「はっはあーっ!! ついに捕まえてやったぞ黒マント、向かってきたときはびびったが、観念したようだな」
そこまで一息に捲くし立てると、男は首をかしげた。
「あれ、このマント……俺が追いかけてたマントだよなぁ」
肩で息をしながら、なおも追跡者は口を開く。私はさっさと立ち去ってくれと祈るばかりだ。汗がとめどなく流れ落ちる。一糸纏わぬ状態でゴミくずの上に寝そべるというのは、拷問に近い。
ふと、右手にくすぐったい感覚を覚えた。恐る恐る、音を立てないように首をもたげると、出迎えてくれたのは全身真っ黒のゴキブ――。
* * * * *
追跡者W
ガランガランッ!!
すぐそばのゴミ山からビンが転がり落ちた。
俺は、ゆっくりと首を回した。なにかいることを確信し、すらりと剣を抜く。
「誰か、いるのか?」
返事はなかった。転がったビンが、俺の足元にたどり着いた。
俺はマントをくしゃっとまるめてポケットにつっこむと、まだ闇が留まっている路地へ歩み寄っっていった。
* * * * *
逃亡者X
絶体絶命、万事休す。
私は瞬きもせず、彼を見つめた。剣先をこちらに向け、じわじわとにじり寄ってくる。刃物を人に向けるなと親は教えなかったのか? それより、どうする。助かるために、なにかしなくては。打開策を、なにか、なにかないのか。
しかし神は時間を与えてくれない。男は白んできた東の空を背にして、顔に濃い影を落としている。
神がダメなら父よ、助けてください。どうか、この愚かな息子を。どうかっ。
* * * * *
追跡者X
俺はゴミ山の前までやってきた。紙やらビンやら残飯やら、ありとあらゆる不用品が山と積まれている。
気を抜くな俺。ビンは独りで落ちたりしないよな。つーことはなにか得体の知れないものがいるに違いない。たぶんこのマントとも関係がある、なにかが――。
「チュー、チューッ」
ゴミ山の頂上付近で、覚えのある声が聞かれた。眉間に寄った山は高さを増し、皺と言う名の谷をさらに深くした。灰色の汚いそいつは何食わぬ顔で、もう一声チューと鳴いた。
* * * * *
逃亡者Y
なんというベタな展開。父上、もう少しましな助け方はなかったのでしょうか。
なにはともあれ、天のから助けが舞い降りた。幾分汚い姿ではあったが、私にしてみれば一点の光である。その正体はドブネズミ。私の顔の数センチ隣でチューチュー餌を探して動き回っている。
男を目だけで窺うと、ネズミに釘付けになっている。どうやら助かった。
が、次の瞬間、男は剣を振り上げて一息に――
* * * * *
追跡者Y
剣の収まりが付かねえから、殺してやろうかとも思ったが、ネズミのちょいと手前で我に返った。愛剣を汚い血で汚すことはねえよな。
どこか釈然としないが、任務はこなした。黒のマントを捕まえたんだ。賞金はしっかりいただくぜ。
俺は踵を返す。それから一度剣を振るって、鞘に収めた。昇り始めた太陽が目にまぶしい。なんつーすがすがしい朝なんだろうな。
「さぁてと、換金してぱあっと酒場にでも繰り出そうじゃねえか!」
おっといけねえ、その前に捨ててきた装備を回収しねえと。
* * * * *
逃亡者Z
男の後姿が見えなくなって、私はようやく緊張を解いた。命の恩人であるネズミにキスし、ぬうっと立ち上がった。
汗が冷えてきており、生まれたままの姿の私は震え上がった。ところで生まれたままのという表現は語弊があるように思う。なぜなら私は今年26歳。裸になると、赤ん坊にないものもいろいろ持ち合わせている。
と、くだらないこと考えていると。冷めた頭は大切なことを思い出させてくれた。
嗚呼、私の大切なマントは取られてしまったのだった。私のトレードマーク。父が遺してくれた愛しいマント。父が残してくれた3つのうちの1つ。
3つというのは、父がいつも身に着けていたマント。そして家を含めた全財産。最後は薬術者であった父が死に際に完成させた神秘の薬。その名も「透明人間薬」である。
この薬は一晩の間、飲んだ者の身体を透明にすることができる夢の妙薬だ。
私はそれを服用し、毎夜一時的に姿を消しては、全裸で風を浴びることを楽しんだ。マントだけは紳士としての心を忘れぬようはずさなかったが、それが今回の悲劇を招いたのだ。姿は消えても、纏ったマントだけは見えてしまう。いくら真っ黒といっても、至近距離では見逃すまい。
「ふふ……ふふはははっ、はっーはっはっはっ!! 吹っ切れたぞ!! 私は変態だぁ!!!」
とうとう、私は決心した。もはや、認めよう。私は変態だ。変質者だ。常識ある私は偽りの人間だったのだ。
マントという鎖は男が持ち去った。次からはもうなにも身に着けない。すっぽんぽんで透明な風になるのだ。
路地裏から飛び出した私は駆け出していた。頭を覗かせた太陽目掛けて一直線に。
通りの向こう側に女性が見えた。しかしもはやなにも恐れることはない。もうマントはない。私は完全な透明人間になっているのだ。
「きゃーッ!!」
予想外の出来事が起こった。いや、興奮して忘れてしまっていたのだ。薬の効果は一晩。太陽が昇るまでの間のみ。
彼女は接近してくる私を知覚し、悲鳴を上げた。顔を両手で覆っていますが、指の間から見てますよね。あなた絶対見えてるでしょ、それ。
従って、つまり、間違いなく……私は恐る恐る下を向くと、そこにはやはり全裸の私がいた。生まれたままの姿で、だ。
いや、しかし、生まれたままの姿なら、まだ全裸でも不思議はなかった。残酷なことに私はもう生まれたままの姿などではない。特に女性の視線が注がれている一点は、赤ん坊とはまるで異なっていたのである。